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2019年02月06日
コラム/最適物流の科学③
最適物流の科学
弊社社長の菅が、2017年12月に『最適物流の科学―舞台は3億6106万平方km。
海を駆け巡る「眠らない仕事」』という書籍を出版しました。
そこで、本ブログでも、その書籍から抜粋した内容を
毎週1話ずつ、ご紹介していきたいと思います。
第三回となる今回は、第2章に書かれた日本の商船の歴史とその種類についてご紹介していきます。
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「貿易が我が国の経済を支える」
島国で、かつ天然資源が乏しい日本にとって、貿易が非常に重要であることはいうまでもありません。
そこでまず原材料資源の輸入依存度を見てみると、鉄鉱石や石炭は100%が輸入。次にエネルギー資源の輸入依存度を見てみると、原油は99.7%、天然ガスは約97.5%となっています。
ちなみに我が国で原油を産出するのは秋田から新潟にかけての地域。最大の生産量を記録したのは2010年で853,000klです。それでも国内消費量の0.4%にしか過ぎません。同様に、新潟県や北海道などで産出される天然ガスも約242,900万㎥(2006年)でしかありません。
つまり必要な残りのエネルギー資源は、先に見た専用船を使って海外から日本へ運ばれてくるのです。
また原材料・エネルギー資源に限らず、衣食住に関わるさまざまな物資が日々海を越えて日本に運ばれてきています。
衣に関する原材料として主要な位置を占める綿花や羊毛は100%が輸入です。また食に関していえば、主な品目で、大豆93%、小麦85%、砂糖67%が輸入に頼っています。これらの数値から、我が国のカロリーベースの食料自給率を計算すると約四割にしかなりませんから、いかに輸入が大事かわかります。
さらに住にまつわる素材でも、天然ゴムが100%、木材も約七割が輸入で占められています。まさに原材料・資源・食料の輸入大国が日本なのです。
さて、それでは輸出に関してはどうでしょうか? 2016年の日本からの輸出総額は約70兆円。その内訳を見ると、自動車や自動車部品など輸送用機器が25%と最大の割合を占めています。以下、一般機械19%、半導体など電子部品を含む電気機器が18%となっています(一般社団法人日本貿易会「日本貿易の現状2017」)。いうまでもなく工業製品が圧倒的に大きな割合を占めています。
輸出依存度(GDP〔国内総生産〕に対する輸出額の比率)は約14.9%です。同じアジアの香港162.6%、韓国40.6%、中国22.6%という数値に比べても、それほど大きくないことがわかります(データは2014年、総務省統計局「世界の統計2017」)。
この数字だけを見ると、日本は「貿易立国」というイメージからは程遠いかもしれません。それでも、日本のGDPは世界第三位。輸出額の国別ランキングでは、アメリカ、中国、ドイツに次ぐ第四位となっています(2016年)。輸出依存度の数値は大きくないとはいえ、日本の輸出規模が世界有数のものであることは間違いありません。
そして、その輸送の大半を担っているのが海運なのです。
「古代から外国と交易を行なってきた日本」
現在の日本経済において「海運」は、欠かすことのできない存在です。
海運によって大量の物資が自由に輸出入できるから、日本経済は成り立っています。
この日本の海運が今日のように発達するまでには、紆余曲折がありました。
日本の海運は、これまでいかなる道を歩んできたのか。はじめにその歴史を再確認していきましょう。
皆さんご存知の通り、日本では古代から朝鮮や中国と交易を行なってきました。これは社会の授業で習いましたね。
聖徳太子の時代の遣隋使に始まり、平清盛は宋との交易を進めましたし、足利義満は明と勘合貿易を行なっていました。時の権力者にとって、近隣の国と交易を行ない、外貨を稼いだり、外国から情報を得たりすることは重要なテーマでした。
さらに時代が進むと、外国との交易がますます盛んになります。
江戸時代の初期になると朱印船貿易が行なわれ、幕府から許可が与えられた大名や商人は「外国との貿易をしてもよい」ということになります。
それまでの貿易相手は、朝鮮や中国という限定された国でしたが、朱印船貿易を機に、東南アジア各国に広がっていきました。フィリピン、カンボジア、タイなどに日本町ができるほど活発に貿易が行なわれたのです。
しかしその後、日本国内で外国の影響力が広まることを恐れた幕府が鎖国に踏み切ります。
これに伴い、貿易相手国はポルトガルと中国だけに。さらに、貿易港は長崎に限定されます。この鎖国の影響で、日本の海運の発達は長期にわたって滞るようになりました。
「明治時代には外国との定期航路が誕生」
外国との自由な交易が復活するのは、明治時代に入ってからです。鎖国がなくなり、外国との海上輸送が再び行なわれるようになりました。
とはいうものの、日本の海運は当初、パシフィック・メイル(Pacific Mail Steamship Co.)というアメリカの海運会社に独占され、自前の海運力を持っていない状態でした。
しかも、パシフィック・メイルは直行便ではなく「サンフランシスコ ― 香港間」を行き来する途中に、横浜、神戸、長崎に寄港しているだけだったのです。
こうした状況の中、「日本も独自の海運を持つべき」との機運が高まっていきました。
そのきっかけとなる出来事が1870年に起こります。
明治政府により半官半民の回漕会社が設立され、「東京 ― 大阪間」に定期航路が開設されたのです。
この会社は残念ながら、業績不振により一年足らずで解散に追い込まれます。しかし、その翌年、解散した回漕会社の業務を引き継ぐ形で回漕取扱所が設立され、一八七二年に日本国郵便蒸気船会社へと改組されました。
また同じ頃、別の場所で近代の海運発展に繫がる流れが起こっていました。
土佐藩出身で後に三菱財閥の創業者となる岩崎彌太郎が九十九(つくも)商会を設立。「高知 ― 神戸間」、「東京 ― 大阪間」の国内航路を開いたのです。
この会社は1873年に三菱商会となり、三菱汽船会社、郵便汽船三菱会社へと改称しながら、事業を拡大していきました。
三菱はその後、日本国郵便蒸気船会社との競争に勝ち、1875年に「横浜 ― 上海間」に航路を開設。これが日本初の外国定期航路となります。
さらに、競合したパシフィック・メイルやイギリスのP&O(Peninsular & Oriental Steam Navigation Co.)を撤退へと追い込みました。
しかし、その三菱に新たなライバルが現れます。
政府と三井財閥らが共同運輸会社を設立。三菱と激しく争うようになったのです。最終的に両社は合併するに至り、1885年に日本郵船会社が誕生することになります。
近代の日本の海運を牽引することになる存在が、この日本郵船会社と別にもう一社ありました。大阪商船会社という会社です。
大阪商船会社は、西郷隆盛を中心にした士族の反乱である西南の役の際、瀬戸内海で活躍した中小の商船会社が合併し、1884年に誕生しました。その初代頭取に就任したのが住友家総理人の広瀬宰平でした。
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つづく。
次回は、日本の貿易の歴史のつづきをご紹介したいと思います。
ご興味を持っていただけた方、続きを一気にご覧になられたい方は、ぜひアマゾンでお求めください♪
最適物流の科学――舞台は3億6106万平方km。海を駆け巡る「眠らない仕事」
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投稿者
ジャパントラスト株式会社